私にとっての真と春香

私は真が好きだ。
私は朝食の後に必ず真を賞味している。
真の匂いを嗅ぎ、その味を確かめなければ、私の朝は始まらない。
だから、私の体の幾許か、特に血液の何%かは、真によって構成されていると言えるだろう。
ちなみに朝食は白飯とみそ汁が常であるが、そんな事は関係ないのである。
和食と真は矛盾しない。私は自信を持って言える。
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学生の時分、過剰に摂取して胃を痛めて以来、真を堪能するのは一日に一度。
それくらいの距離感が、私と真にとっては丁度良いのだと、共に過ごす朝を幾年と重ねてきて思う。
私は仕事柄、出先でお茶を御馳走になる機会を多く持っている。
それは非常に有難いのだが、少し困る事もないではない。
一服の時、特に主張した記憶もないのだが、何故か私には真が出される事が多いのだ。
同僚にはお茶、私には真。そうした暗黙のルールが出来上がっている御宅が、何件か存在する。
なので、そうした現場へ向かう朝は、残念ながら真を味わう事は出来ない。
代わりに飲むほうじ茶も悪くない。悪くはないが、しかし、私にとって真は一日の始まりを告げるスイッチなのだ。
そして、一層残念な事に、出先で振舞われる真に対しては、私はさほど魅力を感じないのだ。
私にとって真とは、他人から与えられるものではなく、喫茶店で出逢うものでもなく、もちろん路傍で唇を寄せるものでもなく、
朝食を終えてから出勤するまでの、決して長くない時間にだけ堪能する、そんなものなのだ。
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そんな私だが、ごく限られた状況において、真よりも春香の方が好きだと感じる事がある。
それは高速道路のサービスエリアだ。
私はサッカーの応援などで、自動車による長距離の移動を、年に何度か経験する。
試合開始時間にもよるが、大抵は深夜に出発し、朝食はSAで、という形をとる。
そんな時、私は朝食後に150円の春香を買い、車に乗り込むまでにそれを味わう。
なぜ真ではなく春香なのか。やはり真は自宅で、という思いもあるのだろうが、薄明のSAで薄衣に収まっている春香を
両の掌で包む時に感じるあたたかさ、春香を口に含んだ時の甘さと優しさもまた、私にとって大切な存在なのだ。
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ま、そんなことはどうでもよくてですね。
ココアと言ったら春香、コーヒーと言ったら真と言ってください。

作:3袋P
すごくおもしろいから皆さんコレを見ましょうと。そういうことです。