【源氏m@ster】夕顔【第四帖】を読む

箱m@sと源氏m@sterの新作が投稿されました。
アイドルマスター】 箱m@s 第16話 【CUBE】

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【源氏m@ster】紅葉賀【第七帖】

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なんという俺得。どちらも見所満載なので、ガッツリ読み込みたいと思います。
素数traPは4月中お忙しく、動画の更新はスローペースになるとの事。
リアルだいじに、ですよ。無理せず新生活の準備をなさってください。
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さて、今日は源氏m@sterの第四帖「夕顔」を読んでいきます。
【源氏m@ster】夕顔【第四帖】

源氏物語に登場する女性達の中でも、ひときわ儚く、しかしながら(それ故に)強い存在感を持つ夕顔。
紫式部自身が愛し、読者の中でもファンが多いという事で……プレッシャーを感じます。

なお、この帖は和歌の翻訳が主となります。
解釈が幾通りもできるのが和歌の特徴。
これが正解とは言い切れませんが、ストーリー的に破綻しない訳をあてたつもりです。
キーワードは「勘違い」。
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場面一

心あてに それかとぞ見る 白露の
光そへたる 夕顔の花

白露の乗る夕顔の花 その露が宿す光で
この花が そこに在る事に気がつかれたのでしょう
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扇の主(夕顔=やよい)から源氏へあてた歌。直訳すると上の様な感じ。
この歌は夕顔の帖全体に影響を与えるものであり、どう解釈するかで、この先に登場する歌の意味が変わってきます。
一般的には白露の光=光源氏ととらえ、以下の様に訳すのが倣いだとか。
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もしや光の君かとお察しします 白露を宿した
夕顔の花の様に輝く 貴方の事を
おそらく歌を贈られた源氏自身は、この様に解釈したのでしょう。それがのちの返歌に表れてきます。
しかし、夕顔は源氏の事を知らない筈。作中で何度も強調される様に「気弱で従順な」夕顔が、見ず知らずの源氏に
歌を贈るでしょうか?
何点かの資料を見比べ、いろいろ考えた結果、夕顔が歌に込めた意味を、私はこう解釈します。
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もしや頭の中将かとお察しします(白露の光が乗る夕顔の様に)
貴方の愛がなおこの身に残る 私が
頭の中将―帚木の帖、雨夜の品定めに登場した男性。夕顔が彼の元・愛人であった事は、後に明らかになります。
彼女は豪奢な牛車が家の前に停まるのを見て「もしや自分を迎えに来たのでは」と思ったのではないでしょうか?
想い人への「私はここに居ます」というメッセージ……それがこの歌だったのではないかな、と。
なお、ここで扇を源氏へ届けた「女童」の事、覚えておくと良いかもしれません。
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場面二

寄りてこそ それかとも見め たそかれに
ほのぼの見つる 花の夕顔

近寄ってこそ 見定める事もできましょう 誰彼時に
仄かに見ただけの 夕顔の花を
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源氏の返歌。夕顔の花とは自分であり、同時に歌の相手、夕顔でもあります。
次はもっと近くでお目にかかりましょう……という、挨拶と誘いの歌ですね。
この歌を贈る際、源氏は筆跡を変えるという行いをしています。
それを贈られた夕顔は、どう思ったか。少なくとも、歌の主が頭の中将でない事は悟ったでしょう。
この儚い勘違いから、悲劇が始まるのです。
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場面三

御心ざしの所には、木立 前栽など、
なべての所に似ず、
いとのどかに心にくく住みなしたまへり。
うちとけぬ御ありさまなどの、
気色ことなるに、
ありつる垣根
思ほし出でらるべくもあらずかし。

お目当ての(女性がいらっしゃる)六条では、庭の木々や植え込みなどが、
余所とは違う趣を見せており、
(御息所が)とてもゆったりと、奥ゆかしく住んでいらっしゃる。
(彼女の)近寄りがたさ、気位の高さは
(他の女性と比べて)際立っているので、
(源氏も)先程の垣根があった家(に住む女性)の事を
(六条に居る間は)思い出されるはずがない。
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音無さん演じる六条御息所の気性と、その住まいに関する描写です。
彼女は帝の弟の妃であり、彼との間に娘をひとり儲けました。しかし夫と死別。実家の父も病死した為、
現在は六条でセレブ生活を送っている、というわけです。
その性格は、作中で見る通り。ピヨちゃんハマり役!
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ここで、作中で省略されたエピソードがひとつ。
源氏の元へ空蝉の夫、伊予介が参内します。
実際に会った彼は老いてはいますが風格があり、話に聞いた好色さは見られません。
源氏、ちょっと反省。
ところがそこで、伊予介から空蝉を連れて伊予国へ帰る事を聞き、源氏は再び悩みだします。
前帖で空蝉が詠んだ歌(小君が源氏の元へ持って帰っていた様です)と小袿を眺め、悶々とする日々。
そんな想いが、彼を夕顔へと傾倒させていったのかもしれません。
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場面四

かかる筋は、
まめ人の乱るる折もあるを、
いとめやすくしづめたまひて、
人のとがめきこゆべき振る舞ひは
したまはざりつるを、あやしきまで、
今朝のほど、昼間の隔ても、おぼつかなくなど、
思ひわづらはれたまへば、
かつは、いともの狂ほしく、
さまで心とどむべきことのさまにもあらずと、
いみじく思ひさましたまふに……

こうした色恋沙汰では、
生真面目な人も(身も心も)乱れる事があるものだが、
(源氏はこれまで)人目をはばかり、落ち着いた振る舞いで
他人から非難される様な行いは(傍目には)
なさらなかったが、(夕顔の事となると)不思議なほど、
(別れて間もない)朝も、逢う事の出来ない昼間も、逢いたくてたまらないなどと、
思い悩まれているので(あった)、
その一方で、(源氏は)「(我ながら、夕顔への強い想いは)正気の沙汰とは思えない、
ここまで本気になる様な恋ではないのに」と、
思い直そうと努めておられるものの……
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そんなわけで、源氏は色々と爆発寸前です。夕顔と逢ってないわけじゃないんですよ?それでもコレ。
まぁ、源氏もこの時17歳。気持ちはわからんでもないですが。
この辺も、第一帖の帝と桐壺の様子に似ています。やっぱ親子ですね。
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場面五

山の端の 心もしらで ゆく月は
うはのそらにて 影や絶えなむ

(行き着くはずの)山際を どことも知らずに行く月は
明けゆく空の中で 影さえ消えてしまう事でしょう
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源氏によって人気の無い「某の院」へと連れ出された夕顔の歌。
この歌に対する源氏の解釈は、たぶんこんな感じ。
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この逢瀬の行く末がどの様なものか 私には知る事も出来ません
何も知らぬまま この身も果ててしまうのではないでしょうか
これに対し源氏は「今まで賑やかな屋敷に居たから不安なのか。夕顔はかわいいなぁ」とか感想を言っています。
ですが、夕顔はこの歌に、もうひとつの意味を込めているという解釈があり、それがこちら。
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源氏の本心がどこにあるのか わからぬまま連れ出される私
何も知らされず 捨て去られるのかもしれません
頭の中将がそうした様に、貴方もまた、私を捨てるのでしょうか?心細い……。
夕顔の訴えは、源氏には届きません。
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場面六

夕露に 紐とく花は 玉鉾の
たよりに見えし 縁にこそありけれ
(露の光やいかに)

夕露を受けて開く夕顔の様に (顔を隠す面の)紐を解いたのは
(夕顔の垣根がある)あの道に通りかかった 縁があったからなのです
(貴女が露の光と詠んだ私の顔は いかがですか)
夕露を受けて開く夕顔の様に (貴女が着物の)紐を解いてくれるのは
(夕顔の垣根がある)あの道に通りかかった 縁があったからなのですね
(貴女を花開かせた私の愛を わかっていただけますか)
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光ありと 見し夕顔の うは露は
たそかれ時の そら目なりけり

光り輝いていると思っていた 夕顔の上の露でしたが
それは誰彼時の 見間違いであったようです
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源氏の歌と、夕顔の返歌。この場面、スクロールの演出が美しいです。
源氏の方は、まぁ見た通りです。先の「心あてに〜」の歌を「自分=露の光」と解釈しての歌。
熱烈なラヴソングですなぁ。
さて、それを受けての夕顔の歌。この歌もまた、解釈が分かれます。
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(光の君と聞いて)露の様に輝くばかりの御顔と 思っておりましたが
あれは誰彼時の見間違い それ程でもありませんね
源氏の解釈。「なーんだ、よく見ると大した事ないのね」という、夕顔の冗談交じりの歌ととらえ、「やっと打ち解けた」
と感想を漏らします。
ですが、この後も夕顔は自分の真の身分を隠したまま。そんな彼女が源氏に冗談を?ちょっと引っかかります。
ここで「心あてに〜」の和歌が頭の中将へあてたものだとすると、その意味が変わってくるわけです。
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(貴方を頭中将と思い) 夕顔に乗る露に 光が宿る様に(中将の愛が今も私に在ると)思っておりましたが
それは誰彼時の人違い 私の想い人ではありませんでした
違うとわかっていても、顔を隠していた源氏に頭の中将を重ねていた夕顔。その幻想も、顔を見た事で完全に否定されます。
貴方は素敵なお方だけれど、やっぱり私の想い人ではありませんでした……そんな諦めの気持ちを秘めた歌。
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何故、ここまで二人の短歌=気持ちは、すれ違うのか。
先に紹介した「雨夜の品定め」の中での、頭の中将と「心もとなき(頼りなげな)女性」とのエピソードがヒントとなります。
彼女は頭の中将の正妻から恨まれ、酷い虐めを受けていました。女性はそれに耐えかね、頭の中将に歌を贈るのですが、
彼はその歌を、何気ない恋歌と勘違いしてしまうのです。
結局、彼女はそのまま、いずこへとも知らず逃げてしまった……。
そしてこの夜、源氏を頼りつつも真に心通じ合う事の無いままに夕顔は謎の死を遂げ、二度と触れ合う事の出来ない所へ
去っていくのです。
「どいつもこいつも、男ってバカよね」
紫式部の声が、聞こえてくるようです。
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場面七

見し人の 煙を雲と 眺むれば
夕べの空も むつましきかな

あの雲が 煙となった想い人(夕顔)かと 眺めれば
この夕焼け空さえも 慕わしく思う
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病床の源氏が夕顔を想い詠んだ歌。説明するまでもないですね。
個人的な意見ですが、源氏の歌は恋歌よりも、こうした独白に近い形で詠まれたものの方が好きです。
この後、空蝉が伊予国へと去っていく話をエピローグとして、夕顔の帖は終わります。
藤壺には手が届かず、空蝉には拒絶され、夕顔とは死別……。
源氏の青年期は「帚木三帖」と呼ばれ、切なさと遣り切れなさを源氏と読者に残します。
その想いが、次帖「若紫」へと繋がっていく事になるのです。
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「夕顔」は資料が多く、それ故に解釈も様々で、なかなか読みごたえがありました。
それだけ多くの人を引き付けるエピソードなのでしょうね。読み終えた私も納得。
実はこの先、末摘花の辺りから、オンラインの資料が極端に減っていきます。本でも探してみようかしら。
ではでは、次は第五帖「若紫」にて。