観測者

このところ考えていた事をまとめてみる事にしました。
思いっきり「我」の文で書きます。
ので、あまり読み易くはないかも。
それでも構わないという方は、続きからどうぞ。
ひとつの事を考え続けると、煮詰まったり袋小路に入ったりしたあげく結論が出ないのが私のダメなパターン。
ここはひとつ、例え話でまとめてみる。
ヒトの心を、月に例えて。元記事からすれば「愛」と言いたいけど、動画の源は愛だけではないだろうから。
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ヒトの心は、それが在るだけでは誰にも見ることはできない。
それのみでは光を放つことはないから。
作品を発表する、というのは、作者が太陽となり、月に光を当てること。
心のある一面に光を当て、他者の目に触れる様にすることだ。
当然、光のあたっていない月の裏側は見えないままだし、内面を目にする事などできない。
一方、作品を見るというのは、月を見ることだ。
ところが、観測者の立ち位置によって、月はその形を変えてしまう。
ある人は満月を見ることができても、別の人にとっては三日月に見える事だってある。
あるいは新月のように、作者が見せようとしたものを全く受け取ることができない場合もあるだろう。
同じ作品を見たからと言って、同じように見えるとは限らない。
更に、目にした作品から何を感じるか、という事になると、同じになる筈がない。
ある人は月にウサギを夢見るし、ある人はアームストロングの足跡に想いを馳せる。
ある人は46億年に及ぶ太陽系の歴史を感じ、ある人は莫大な資源として見るだろう。
視聴者同士での感情の共有なんて、出来る筈がない。
まして、作者と視聴者では尚更だ。心の表面を反射して届く光を見て、その内側まで理解する事はできない。
せいぜい推測するだけ。
だから私は「愛は共有できない」と断言したわけだ。
共有できるものがあるとしたら、観測する場所。つまり、ニコ動の事だけど。
それにしたって、コメントやマイリストの数は常に変動するから、それに見る側が「引っ張られる」事もあるだろう。
私が初見時はコメントを消しているのは、引っ張られたくないから、というのが大きい。
過去のコメントが残っている事で、過去を疑似体験できるという意見もあるが、それはやはり「共有」ではない。
それは化石だ。あるいは記録映像。熱がない。触れる事はできても、中には入れない。
作品と、その時の雰囲気を複数の視聴者が共有するには、同時に作品を見るしかないだろう。
そういう意味で、シネMADやKAKU-Tailの様に公開日時が事前に発表される企画は、視聴者間の距離を縮める良い趣向だと思う。
見ている間にコメ欄が怒涛の様に流れて行く様は、視聴者に一体感を与えるのに十分な舞台装置だ。
だけど、そこで共有しているのは「場」であって、作品に対する「想い」ではない。
月を見て何を思うかなんて、人それぞれなのだ。
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じゃあ、紹介ブログって?
それは「月があっちに見えますよ」というお知らせ。
場合によっては月を写真に撮り「こういう風に見えました」という事もある。
それは月そのものではない。観測者の報告書みたいなものだ。
「月がどう見えたか」を記す時点で、そこには観測者の主観が混じる。
というより、月を題材にした別のモノへと変わってしまう。
だから、全く異なる位置から観測した人からは「そうじゃない」と反発を受ける事もあり得る。
むしろ、共感を得る場合の方が少ないのかもしれない。
何より、作者の意図と異なる情報を発信する可能性だって大いにある。実際、私もやった事だ。
その事を作者から直接、あるいは間接的に指摘された時は、ブログごとブラックホールに飛び込みたくなった。
そして、もともと月なんか見たくないという人にとっては、内容に関わらず情報そのものがノイズとなる。
情報をノイズとして受け取った人によっては、そこに月が含まれていたという理由から、月そのものを
嫌ってしまうことすらあるかもしれない。
じゃあ、紹介記事なんて、無い方がいいのか?
まだ、その結論は出ない。
でも、そうした危惧よりも「探してた動画が見つかった。ありがとう」というコメントを貰えた事を喜びたい。
ウチのアクセス数なんか知らないけど、誰かひとりがウチ経由で動画を見てくれたら、そして
「GJ」と動画に書きこんでくれたら、それだけで下半期もブログ続けられる。
というか、紹介した動画の再生数が10伸びてるだけで、私は嬉しい。
自己満足である事は自覚しつつ、それでも「あの月は綺麗だね」と言いたい。
誰かから「そうだね」と言ってもらう為に。
例え、その人が見た月が、私の見た月とは違う姿だったとしても。
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結局、対して綺麗にまとまらなかったなぁ。
でもまぁ、これは儀式みたいなもんです。
どんだけ歪でも、形にしておきたかったという事。
またいくらか時間が流れて、この記事を読み返した時、違う事を思っていたら、また書こう。
今回は、ここまで。