選ばれなかったもの/「この世界の片隅に」感想

遅れ馳せの視聴であり、市井には既に優れたレビューや感動の声が多くあるようなので、でしゃばることもないのでしょうが。
記すこと、遺すことについて考えずにいられない作品でもあるので、つれづれに書いておきましょう。
なお、私は原作である漫画版「この世界の片隅に」を既読しており、映画「この世界の片隅に」を一度視聴した立場であること。
また、劇場パンフレットを含む関連書籍は未購入であること。
先駆者の皆さまの感想などは、今のところ見出しを眺めた程度であること。
故に、記憶違いや誤解などが含まれる可能性があることが前提となります。
そして当然ながら、作品の内容に言及するため、ネタバレの感想となります。御容赦。
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アニメファン、あるいは映画好きのひとりとしては、非常に満足度の高い一本でした。
映像美術、音響、演出、演技、考証。
それぞれに質が高く、また互いの嚙み合わせも一致していて、頭が躓くことはなかったと記憶しています。
漫画である原作を動かす意味、音と声をつける意味を、しっかりと意識しているのだろうなと。
視聴中、映画「プライベート・ライアン」のオマハビーチ上陸戦への評として
「あとは血の臭いがあれば、これは本物である」というものがあったことを思い出しました。
海苔が干された浜の匂い、花街の女たちが纏う白粉の匂い、焼夷弾や航空燃料の臭い、白米が炊き上がった時の匂い。
そうしたものを感じたいと思わせる、見事な描写だったと思います。
演者でのMVPをあげるなら、夫である北條周作を演じた細谷佳正さんと、黒村晴美を演じた稲葉菜月さん。
周作さんの誠実で、かつ内面を掴みきれない人柄を感じさせる声。側溝での演技も素晴らしかった。
そして晴美ちゃん。物語を支える大切な柱である、彼女の「笑い声」が、本当によかった。
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さて。
原作を知るものとしては、不満とか批判ではなく、とても不思議な映画ですね。
同じはずなのに、あの絵が動いているのに、物語としては別のものになっている。
具体的に言えば、二葉館の人々と、すずの義父「北條円太郎」の扱いの違いによって、「女の物語」と「男の物語」に分岐していると感じた。
漫画では、すずと周作の間には、絶えずリンの影が存在する。りんどうの茶碗に、手帳の裏表紙に、テルちゃんの紅に、それは宿っている。
周作を見送るとき、紅をさしたのは何故か。あの焼夷弾を、身を投げ出してまで消したのは何故か。守り抜いた家へ帰ってきた周作に、リンの消息を頼んだのは。
意地だけではない。嫉妬だけでもない。愛だけでもない。縋るだけでもない。それらは映画では選ばれなかった「女の物語」であったろう。
紅入れと羽ペンを同時に砕かれた機銃掃射の最中で、それでも周作の背に回された、すずの右手。それも「女の物語」。
敗戦後、リンが宿っていたモノはすべて失われ、それでも周作とすずの間にはリンが居る。
「これはこれでゼイタクなこと」というすずの姿は、彼女がなりたいと願っていた「強く優しい呉の女」だったのではないだろうか。
そうしたものの大半を、映画ではエンディングロール中に「リンの物語」として独立させ、本編からは切り離した。
その「リンの物語」を描くのが、奪われたすずの右手であったことを考えると、やはり「選ばれなかったもの」という言葉に行き着く。
消えてしまったけど、そこにあったものとしての描写。それはすずにとっての晴美の笑顔と同じ、ある種の聖域としての扱いかもしれない。
二葉館の前に腰かけ、佇むリンとすず。りんどうの花。とても静かで、美しい情景。
そこに至るまでの様々な情を、右手が描くことはなかった。それは「選ばれなかった」から。
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一方で、すずの義父であり、呉の軍需工場に務める円太郎に関わる描写が、漫画と比べ映画では明らかに増加している。
端的なのは、20年3月の空襲時。米軍機を迎撃する日本軍機を見上げ、誇らしげに己を語る姿は「男の物語」だ。
終戦時、設計図(前述のエンジンだろうか?)を両手に持ち、しばし見つめて火に投じる姿。これも「男の物語」だろう。
工場が爆撃され負傷した円太郎。血に染まった衣服が丁寧に描かれ、傷が癒えた後は再び務めに出ていく。
漫画版ではふきだしのみの、円太郎が復職していく後姿を敢えて描いたのは、製作者が義父に何かを見出したからなのだろう。
その姿は、すずは見ていない。彼女はまだ床に臥せていたから。
当然、設計図を燃やす姿も見ているはずがない。彼女には、想像すらできないだろう。それでもなお、映画ではその姿が選ばれ、描かれた。
すずが自分の居場所を見出す物語として考えたとき、このシーンは異質だ。
今まで信じていたものが「飛び去って行く」ことの表現だとしても、すずの世界に当てはまるピースではないと感じた。
それを敢えて見せた。映画はすずの物語の影にあるものとして、「女の物語」よりも呉に生きる「男の物語」を選んだということだろう。
ついでに言うと、漫画では円太郎がお勤めの最後に「退職金替わり」として鍬を作り、工員に配っていた。
映画のエンディングで、円太郎が鍬を持っていたはずだが、その由来となるエピソードは描かれていない。
代わりに挿入されたのが、義母が蓄えていた白米を焚いての晩御飯のシーンだ。
ここでは「女の物語」が選ばれ「男の物語」が省かれている。不思議なバランス感覚だ。
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この世界の片隅に」では、男女に限らず、人と人とが完全にわかりあうことはできない。
そりゃそうだろ、と言われればその通りだが、漫画版と映画版の違いに触れたとき、私は改めて、そのことを意識せずにはいられなかった。
わかりあえない人と人。もしかしたら、このふたつの「この世界の片隅に」の間でさえ、そうなのかもしれないと。
それでも。だからこそ。